蒹葭ケンカ篇―詩経国風・秦風

蒹葭蒼蒼  蒹葭蒼蒼ソウソウたり        ひめよしはあおざめて
白露爲霜  白露霜と為る           白い露は霜になる
所謂伊人  所謂いはゆるの人        私のいとしい人は
在水一方  水の一方に在り          川のかたわらにいる
遡洄從之  遡洄ソカイして之に従へば      流れを上って後追えば
道阻且長  道は阻して且つ長し       道は険しくどこまで続く
遡游從之  遡游ソユウして之に従へば     流れを下って後追えば
宛在水中央  宛エンとして水の中央に在り    いつの間にやら川の真ん中

蒹葭萋萋  蒹葭萋萋セイセイたり        ひめよしは一面に茂り
白露未晞  白露未だ晞かわかず       白い露は乾かず残る
所謂伊人  所謂いはゆるの人        私のいとしい人は
在水之湄  水の湄ほとりに在り           川の岸辺にいる
遡洄從之  遡洄ソカイして之に従へば      流れを上って後追えば
道阻且躋  道は阻して且つ躋のぼる       道は険しく坂を上る
遡游從之  遡游ソユウして之に従へば     流れを下って後追えば
宛在水中坻 宛エンとして水の中坻チュウチに在り  いつの間にやら川の中州に

蒹葭采采  蒹葭采采たり           ひめよしは色映えて
白露未已  白露未だ已まず          白い露はまだ消えない
所謂伊人  所謂いはゆるの人        私のいとしい人は
在水之涘  水の涘みぎわに在り          川のなぎさにいる
遡洄從之  遡洄ソカイして之に従へば      流れを上って後追えば
道阻且右  道は阻して且つ右す      道は険しく折れ曲がる
遡游從之  遡游ソユウして之に従へば     流れを下って後追えば
宛在水中沚 宛エンとして水の中沚チュウシに在り  いつの間にやら川の小島に

〈形式分析〉
Ⅰ~Ⅲ 1蒹葭[  a  ]
    2白露[  b  ]
    3所謂伊人
    4在水(之)[c]
    5遡洄從之
    6道阻且[d]
    7遡游從之
    8宛在水中[e]

 

    Ⅰ

    Ⅱ

    Ⅲ

    a

   ts'ang

 萋  ts'er   

 采  ts'əg

             b

   sïang

 未  hiər

 未  d(y)iəg

             c

   piang

 湄   miuər

 涘   dzïəg

             d

 長   diang

 躋   tser

 右   ɦiuəg

             e

 央   ・iang

 坻   dier

 沚   tiəg

 (パラディグム表)

五つの詩行でパラディグムを変換し、三つのスタンザを反復する形式。3・5・7の詩行は一字も換えないリフレーンである。また5と7は文体的な対偶法をなす。
表の縦の列(Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ)は音声上の類似性のパラディグム。Ⅰでは~ang、Ⅱでは~er、Ⅲでは~əgが共通の語尾になっている。これを押韻というが、詩経では単なる語呂合わせではない。異なった意味領域のものごとを音声的類似性で結びつける働きがあり、これの発見に詩の眼目がある。それは横の列(a・b・c・d・e)でも同じである。これらは意味上の類似性で結ばれている。aでは植物の状態を形容する語。bでは露の降り方・置き方に関する語。cでは川の周辺の地形に関する語。dでは道の形態に関する語。eでは川の中の場所に関する語。音声上の類似性の語と意味上の類似性の語が縦横に交差して網の目のように排列されるのである。これは詩経の詩学の最も基本的な形式であり、美的要素が最高度に発揮されている。
反復形式は単なる繰り返しではない。パラディグムを変換することにより、場面ごとに少しずつ変化が生じる。一つのスタンザを一つの絵画とすると、その絵画の中の何かが変わることで、次の絵画に新たなものが加わる。さらにまた次の絵画に新たなものが加わる。すると三回反復した絵画に動きが生まれる。これはまさに動画である。詩経の反復形式は動画的な効果がある。
aは植物の色が蒼蒼→萋萋→采采と変化する。夜明けの頃、アシの原の景色が青ずんだ状態(暗くて薄ぼんやりと見える状態)から、生い茂ったアシの色が見える状態へ、ほのかな光を反射して色が映えてくる状態へと変化する。ここには夜から朝への時間の経過が読み取れる。
bでは「霜と為る」から「未だ晞かず」「未だ已まず」へ変化し、露の置き方が日の出とともに十分に置いた状態から次第に衰えていくことが示される。ここにも時間の動きがある。
cでは心に思う恋人がいるであろうと想像される場所が川の側面から岸辺、汀へと移動する。つかもうと必死で求める恋人があてどなく離れていく。
dでは恋人を求める作者(男性)は女性の後を追おうとするが、道は険しいだけでなく、遠く長い→坂になっている→折れ曲がるへと変化し、女性をつまえることができない。
eではつかまえたと思った瞬間、女性は川の中央→土砂のたまった場所(中州や小島)へ移動しており、ついにつかまえることはできなかった。
これは幻想的な風景である。恋人の心をとらえることのできない男性の空想世界の出来事である。本詩では化け物は出ないがムソルグスキーの「禿げ山の一夜」を映像化したディズニーの「ファンタジー」を想起させる。夜のアシ原を、恋人を求めてさまよい、恋人を見つけたと思ったら、恋人は川の上を移っていく。必死に求めるうち、とうとうアシ原に夜明けの時がくる。幻想は終わりを告げる。

〈語釈〉
〇蒹葭・・・Phragmites communis。イネ科の多年草、アシ。アシを表す漢名は一つではない。生長によって名が変わる。初生のアシを蒹という。ついで萑→葭→蘆となり、最終段階のアシを葦という。蒹葭は老成したアシではないので「ひめよし」と訳す。
〇蒼蒼・・・蒼は青とは違いくすんだ青色。
〇白露爲霜・・・霜は白露が凍ったものというのが古代中国人の通念。
〇所謂伊人・・・伊人は「彼其之子」と似たような表現で、恋人を表す常套語。
〇一方・・・一方の側。川の側面の土地を指す。
〇遡洄・・・川の流れを回りつつ遡る。
〇從・・・後について行く。後を尋ねて追う。
〇阻・・・山や道が険しい。
〇遡游・・・押し流されるままに下る。游は定所なく水上に浮かぶ意味。
〇宛・・・気がつかないうちにいつの間にかの意味。
〇萋萋・・・草木が生い茂る様子。
〇湄・・・水の近く。岸辺。
〇躋・・・高い所にのぼる。坂をのぼる。
〇坻・・・川の中に土砂のまたった所。中州。
〇采采・・・彩りの華やかな様子。
〇已・・・「やむ」と読む。ここでは露が全く乾くことをいう。
〇涘・・・みぎわ。なぎさ。
〇右・・・右に折れること。長・躋・右は道の距離が長いけれども平坦や直線のコースではないことをいっている。 
〇沚・・・川の中で水の流れを一時的に止める所。川の中にできた小島や中州のこと。