風雨淒淒 風雨淒淒セイセイたり さっと起こる雨と風
雞鳴喈喈 雞鳴喈喈カイカイたり そろい鳴く一番どり
既見君子 既に君子を見る 背の君にお会いして
云胡不夷 云胡いかんぞ夷たいらがざらん 胸のしこりも取れました
風雨瀟瀟 風雨瀟瀟ショウショウたり さっと起こる雨と風
雞鳴膠膠 雞鳴膠膠コウコウたり 乱れ鳴く二番どり
既見君子 既に君子を見る 背の君にお会いして
云胡不瘳 云胡いかんぞ瘳いえざらん 恋の病も落ちました
風雨如晦 風雨晦くらきが如し 雨と風は暗かれとばかり
雞鳴不已 雞鳴已やまず とりの声はひっきりなし
既見君子 既に君子を見る 背の君にお会いして
云胡不喜 云胡いかんぞ喜ばざらん 恋の喜びいかばかり
〈形式分析〉
Ⅰ~Ⅲ 1風雨[ a ]
2雞鳴[ b ]
3既見君子
4云胡不[c]
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Ⅰ |
Ⅱ |
Ⅲ |
a |
淒淒 ts'er |
瀟瀟 sög |
如晦 m(h)uəg |
b |
喈喈 kĕr |
膠膠 klɔg |
不已 d(y)iəg |
c |
夷 d(y)ier |
瘳 t'iog |
喜 hiəg |
a・b・cの箇所でパラディグム(同系列語)を変換し、Ⅰ・Ⅱ・Ⅲの三つのスタンザへ反復し、展開させる形式。
縦の列(Ⅰ・Ⅱ・Ⅲ)はそれぞれ音声上の類似性に基づくパラディグム。
横の列(a・b・c)は意味上の類似性に基づくパラディグム。aは風雨の状態を表す語。bは鶏の鳴き声を表す語。これらはすべて自然界における事物の状況を述べている。a・bともⅠ・Ⅱは畳語(音節を重ねた語)であるが、Ⅲは不規則になっている。反復を別の語形に外すのは意味がある。
cは人間の心理を表す語群。夷は「たいらぐ」の意味で、まだ会えない時の苦しい思いが平静になること、瘳は「いえる」の意味で、恋煩いが治ること、喜は文字通り「よろこぶ」こと、恋愛の成就の喜びである。夷→瘳→喜の変換は精神の状況が漸層法(クライマックス)的に変わっていき、喜びというクライマックスに到達することを表現している。
3の「既見君子」は「未見君子」と対になる定型句である。まだ会えない時の心情とすでに会った時の心情を対比させて、喜びの感情を高める形式である。本詩では「未見君子」は省略され、会えない時の心情は「不夷」「不瘳」「不喜」の語によって推測させる。それが「云胡」という反問文によって、会えた後の心情をクライマックスにまで進めるのに効果的である。
1・2と3・4は自然/人間のパラレリズム(平行法)となっており、自然界では人間を妨害しようと鶏が夜明けを告げるが、人間界ではそれを物ともせず、それをはねのけて、あるいは無視して、恋人たちは恋の桃源郷にまどろむである。
〈語釈〉
〇風雨・・・気象モチーフの一つ。風雨や嵐は烈しい心情の象徴である。
〇淒淒・・・風と雨がそろって一斉に吹きつける様子。
〇雞鳴・・・雞は鶏の異体字。雞鳴はニワトリの鳴き声。雞鳴(夜明けを告げるニワトリ)は妨害者モチーフとして使われる。
〇喈喈・・・皆は階・諧などと同源で「そろう」というコアイメージがある。喈喈は多くの鳥が声をそろえて鳴く様子。
〇既見君子・・・恋人にすでに会ったときの心情を述べるための定型句。「未見君子」と対になることが多い。
〇云胡・・・「いかん」と読み、「どうして」の意味。反問文(否定の否定)を導く。
〇夷・・・平らぐ、平らかになる。心のわだかまりが取れて穏やかになる。心の波が静かに落ち着く。
〇瀟瀟・・・ひゅうひゅうと荒らしく吹き抜ける様子。
〇膠膠・・・もつれたように入り乱れて鳴き交わす様子。
〇瘳・・・「いえる」と読む。病根が取れて治るように、恋の病が抜け落ちる。
〇如晦・・・晦は陰暦の月末のことで、月の出ない真っ暗闇。ニワトリは夜明けを告げているのに恋人たちにとってはまだ暗い世界に浸りたいから、「晦きが如し」という。